日本の国家形成とその体制のバックボーンとしての仏教と日本古来のカミについて考えてみます。
日本人は古代より、山や河あるいは雷など、さまざまな自然現象の中に神の存在を見いだしてきました。このような日本人の宗教観念の基層を形づくってきた土着の神々に対する信仰と、外来宗教である仏教が深く融合・合体した信仰のあり方を、今日一般に「神仏習合〔しんぶつしゅうごう〕」と呼んでいます。(奈良博物館HP)
「仏教」が「国教」となったのは聖徳太子の時代で、神仏習合は聖徳太子が取り入れ、その後、神宮寺(じんぐうじ)という寺院と神社の中間のような寺院の普及により広がっていきました。 太子の死後、743(天平15)年、疫病や内乱に悩んだ聖武天皇は国分寺などの総本山として東大寺の建立を発表しました。
聖武天皇は、日本を佛の教えで調和と平和のある国にしたいと決意して、奈良に大仏を建立し、総国分寺としての東大寺を建てて戒壇院によって僧尼の養成を行い、全国に国分寺を造ったとのことです。
もともと、インドで成立した仏教は、仏教がひろがる過程で、その教義の中に、仏教の守護者として、インドの神々を取り込んでいました。と同様に日本においても従来からの神々が取り込まれていきました。
崇拝される対象が山そのものであったり、岩であったりしたため、日本古来の神々は、元来、「形」を持ちませんでした。
仏教の興隆にしたがって、仏の眷属達と、段々と融合していきます。それが人の形を成すのは、仏像の影響を受けて後のことと考えられます。仏教は在来の「神」を取り込んでいき、また「神」も仏教をバックボーンとしていったようです。神仏習合といわれるように日本において、神と仏は同時に祀られる対象でした。
日本が仏教を受け入れるきっかけとなったのは、百済の聖明王が欽明天皇に仏像や経巻を送ったことによる、と言われています。このとき、外交を重視し、仏教の受け入れを主張した蘇我氏と、日本古来の神遣の危機を訴え、排仏を主張した物部氏とに分かれてしまう。仏教受け入れ後、疫病がはやり廃仏派は仏教を受け入れたからと仏像を焼いたところ、疫病がおさまるどころかさらに流行し多くの人々がなくなることで”仏像を焼いたたたり”といわれたようであります。本来の釈迦の開いた仏教には”たたり”のようなことをお経で消滅させるということもなかったようです。
時代とともに変化していったため、また釈迦の開いた小乗仏教は記録することはあまりしないため詳しくはわかりませんが・・・。仏教を巡る闘いは、豪族の問で激しくなり、国論を二分するに至る。結局崇仏派の蘇我馬子が優勢となるが日本人の古来よりの神道も残すことで日本人の信仰の形態は神仏習合となっていったといわれます。お寺の根本に神社が祀られているのは、この考え方が日本人の根底にあるからだといわれています。
一神教の神は唯一絶対の神で宇宙の創造主であるため、神と人間の間には計り知れない距離があります。
教義上の絶対の神といえ他宗教の信者を改宗させていく過程では教義を曲げることも必要なことがあるようです。
ローマのトレビの泉を見るとロ−マ皇帝がキリスト教へ改宗する過程でトレビの泉のなかにキリスト教の教皇のしるしとギリシャ神話の神々が仲良く同居しております。偉大なローマ人といえどもその宗教的統一の過程で人々の心にかなりの不一致が残っていたと思われます。
トレビの泉、ギリシャの神々と教皇のシンボル
キリスト教の教皇のシンボル
多神教では神は絶対の超越神ではなく自然界のあらゆるものが神の領域にはいる、人と神、自然が隣り合って暮らす世界なのです。古来の神(カミ)における最高位の神は山の神となっている祖先神で収穫の時期に祭ることで里におりてきて子孫に祝福を与え守護する。先祖の霊もまたさまざまな姿をしてこの世に現われてくると信じられております。
宗教としては宗教体系が必要であるが日本古来の神道はまだ十分でなくまた国としての体制を構築するため仏教(大乗仏教)を中心とする東アジアの国造りを受け入れることとなったようです。
現在の宗教上の混乱は幕府の管理体制の影響からか幕末から明治時代にかけて国学者たちに神仏分離の考え方がおき、 「神仏分離令」が発令され、廃仏毀釈が起きて神道と仏教の関係が混乱していったようであります。
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